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大阪高等裁判所 昭和51年(う)612号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人笠松義資、同丸尾芳郎共同作成の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。

論旨は、被告人は女性の乗客の後ろより地下鉄電車に乗り込んだ際、その女性が肩からかけていたシヨルダーバツグが混雑する乗客の間に引つぱられ、被告人の胸元付近でそのシヨルダーバツグの口が開かれ、その中より化粧バツグが落ちそうになつたので、被告人の右手でこれをバツグ内に押し戻そうとしていた時化粧バツグが落ちて来たので思わずこれを受け止めたものであるから、被告人は無罪であるのに、被告人をすり犯と認定した原判決には、事実の誤認がある、というのである。

よつて、記録および当審における事実調の結果を検討して、次のとおり判断する。

一原判示認定事実に副う資料について

本件はすり係刑事がシヨルダーバツグの内から皮製化粧バツグをすり取つたとして現行犯逮捕をし、被告人が司法巡査等に対し一応犯行を認めた事案であるところ、原判示認定事実に副う重要な資料は次のとおりである。

(1)  被告人をすりの現行犯として逮捕した二〇余年間すり犯捜査係に専従してきた刑事小川清の原審公判廷における供述によれば、その要旨は、「大阪地下鉄淀屋橋駅ホームで単独勤務警戒中、被告人が被害者西島絹江のシヨルダーバツグに目を付け、被害者の後についたので、同刑事は被告人の背後に接近してゆき、被告人のコートの右横ポケツト内の内側底付近から右手先が出てシヨルダーバツグにふれようとしているのを一、二人の人越しに確認したので、被告人の背後から同人に密着して車内に入つたところ、被告人が右肩を上げたので、これはすりをやつたと思い、直ぐ被告人の手先の見えるところにでると被告人は右手にグリーンの化粧バツグを握つていたので、その右手を押えたうえ、現行犯として逮捕した。」というのであり、

(2)  被告人の司法巡査に対する逮捕当日の供述調書によれば、その要旨は、「私は今日は土曜で半日勤務のため帰宅すべく、午後一時すぎころ地下鉄御堂筋線本町駅から満員電車に乗つたが、淀屋橋駅で降車客が多かつたため一旦ホームに降り、再度前後の客に押し押されつつ、左手に書類用封筒を持ち、右手をコートの右ポケツトに入れたまま車内に乗り込んだ。その時目の前にいる女性が右肩から提げているバツグのふたが開き財布が中に入つているのが見えたので、今なら素人の私でも簡単に財布を盗める、盗んでやろうと思つた。今迄盗みをやつたことはなく、金に困つていることもないので何故そんな悪いことをする気になつたのか自分でも判らない。たまたま右手を入れているポケツトの底が破れていたので、その底から指を伸してバツグの中から親指、人差し指、中指の三本の指で財布を盗んだところ、私服の刑事に財布をつかんだままの右腕をつかまえられて捕まつた。」というのであり、

(3)  被告人に対する勾留裁判官の質問調書によれば、「事実はそのとおり間違いありません、検察官の取調べの際に知らぬうちに財布を握つていたというのは計画的にやつたということを否定したもので、窃盗の事実を否認したわけではありません。」というのである。

そこで、次に、これらの資料の証明力、信憑力の有無につき順次検討する。

二証人小川清の供述の証明力について

証人小川清は、被告人が右肩を上げたので、これはすりをやつたと思つたのであつて、被告人の右手動作を現認していないところ、

(1)  被害者である原審証人西島絹江の供述によれば、「同女はシヨルダーバツグに化粧バツグ、財布、ちり紙等を入れ、シヨルダーバツグのホツクをとめて右肩にかけ、地下鉄淀屋橋駅で混雑する乗客に押されて千里中央駅行に乗車し、ドアに近いコーナーで入つてすぐ左側の支柱のところに立つたが、シヨルダーバツグは他の人に押されて前の方に離れていつた形になり、掛け紐を引張つたが人の体に挾まれているのか返つてこないので、電車が一度ゆれたら返つてくるだろうと思つていると、刑事の『奥さん財布をとられていますよ』という声と共にシヨルダーバツグが返つてきた。なかを調べたら財布はあつたが、化粧バツグはなく、私のやや斜め前の刑事がこれを口にくわえていた」旨述べていること、

(2)  被告人の当公判廷における供述によれば、「被告人はコートのポケツトに手を入れ胸の方にだく癖があり、本件当時も左手に書類用封筒を持ち、右手をボタンを殆んどかけないまま着用しているコートの右ポケツトに入れたまま、女の人(西島絹江)の後について乗車し真直ぐなかに入つたが、女の人は前方に進行して若干左に寄り入口の方を向いたため、被告人の左横でむしろ後向きになり、そのシヨルダーバツグ(の袋部)は被告人とその前の男の人の間に挾まり、被告人の腹前あたりで四五度位に傾きながら掛け紐で引張られ、シヨルダーバツグの口が開いてなかから化粧バツグがはみ出して落ちかけそうになつたので、中に入れてあげようとして被告人はコートのポケツトに入れていた右手をポケツトの綻びから伸して化粧バツグを押え、これを押し込もうとしたとき小川刑事に右手首を押えられた」旨述べていること、

(3)  当審の押収にかかるシヨルダーバツグおよび化粧バツグ(当庁昭和五一年(押)第二三五号の二、三)によると、右西島証人および被告人が供述する電車の混雑状況、シヨルダーバツグ(の袋部)が西島絹江から離れて人の体に挾まれた状況下においては、シヨルダーバツグのただ一つ中央にあるだけのホツクは、とめられていても人混みに挾まれてもまれ、掛け紐を引張る等の力が加わるとはずれる可能性があり、二つ折といつても単にかぶさつただけでとめ金もないシヨルダーバツグ内の化粧バツグは、シヨルダーバツグが大きく傾き人の体に挾まれた状態で掛け紐を引張られると、なかから滑り出てくる可能性がないとはいえないことが認められること、

(4)  化粧バツグは長さ約二一センチメートル、高さ約一三センチメートルの大きながま口型のバツグで、これが化粧用品一一点在中してふくらんでいる外形は、一見して金銭を入れる通常の財布(がま口)と相当に異なることが看取されること、

(5)  被告人が着用していたコートの右ポケツトの内側底は綻びており、被告人はこの綻びから右手を伸して化粧バツグを押えたのであるが、押収のコートおよび原審証人蓮池祐子(被告人の妻)の供述によれば、同コートは長く使用したもので、前シーズンの終りに次のシーズンには使用をやめようと思いクリーニングにも出さなかつたものであるが、本件当日は国鉄のストで通勤電車の混雑が予想され、かつ出勤のための出発も早朝になるため被告人に着用してもらつたもので、その綻びの存在状態およびこれが補修されていないことに格別の不自然さはなく、また、同コートには同じ位置に貫通ポケツトが取りつけられてあり、すりを行なうためには必らずしもポケツトの内側底に綻びをつくる必要はないこと、

(6)  原審証人蓮池祐子の供述および被告人の司法巡査に対する供述調書によると、被告人は本籍地の高校卒業後上阪してタキロン株式会社に事務員として一五年間勤続、勤務してきた社宅に住む三四歳の会社員であつて妻と子供二人を給料で養い、生活状態は、普通であり、これまで前科はもちろん警察の取調べを受けたことがないものであること、

などが認められ、これら電車の混雑状況、シヨルダーバツグが人の体に挾まれ、引張られ、傾いた状況、シヨルダーバツグのホツクがはずれ化粧バツグが滑り出てくる可能性、化粧バツグの外観、大きさ、コートのポケツトの綻びの自然性および被告人の経歴等に照らすと、すり係刑事小川清は、被告人がホームで西島絹江のシヨルダーバツグに目を付けたことおよびコートのポケツト内側底付近から右手先を出してシヨルダーバツグにふれようとしていたこと、被告人の背後に密着して車内に入つたところ被告人の右肩が上がつたことおよび手先の見えるところまででると被告人は化粧バツグを握つていたことなどを述べたてるが、同刑事は被告人が化粧バツグを手にする際は、背後から被告人の右肩が上がつたのをみただけで、被告人の右手の動作およびシヨルダーバツグ、化粧バツグの状況等をみておらず、またシヨルダーバツグに目を付け、これにふれようとしたとの点は、多分に看取者の主観的な評価、判断の入つたものであるのみならず、混雑する電車に乗ろうとして前者等に密着して押し入る際の状況であるから、すり目的がなくても偶然そのような状況が生ずることがありうると考えられるので、原審証人小川清の供述は、被告人の原審および当審における、シヨルダーバツグのなかから化粧バツグがはみ出してきたので、これを右手で押え、押し込んであげようとしたものであるとの弁疏を排斥し、被告人が化粧バツグを窃取する目的ですり取つたものであることを認めるに足る十分な証明力を有する証拠とはいいえない。

三被告人の司法巡査に対する供述調書および勾留質問調書の信憑力について

(1)  被告人は原審第一回公判において、「起訴状記載の公訴事実のとおり相違ありませんが、西島絹江は知りませんし、同人のシヨルダーバツグ内から化粧バツグをすり取つたこともありません、この点は公訴事実と違います」と陳述し、被告人は原審および当審公判廷において、捕つたこと、化粧バツグを手に持つていたことは事実ですので捜査官の取調べや勾留質問に対し「事実はそのとおり間違いない」と述べてきた旨を供述するのみならず、当審における被告人の供述を通じて、先ず捕つたことや、化粧バツグを手に持つていたことなど外形的事実を認めたうえで、弁疏に入る遠慮勝ちな態度、性格がみうけられること、

(2)  被告人の勤務先の上司である原審証人奥中達生の供述によれば、被告人は誠実、忠実で仕事は安心してまかされるが、ただ小心というか遠慮勝ちな面がある旨述べられていること、

(3)  被告人の原審および当審における供述によれば、車中で逮捕されたとき、弁解しかけると小川刑事から「何いうとるか」といわれ警察署に行けば理解してもらえると思い「行きます」といつておとなしく連行されたこと、警察署で司法巡査厚地輝雄の取調べを受けるにあたり、すり取つたのではない旨弁解し、逮捕の刑事にあわせてくれといつたが、同刑事にあわせてもらえず、「現行犯で捕つとつて何いうとるか」といわれ、さらにコートのポケツトの底が綻び抜けていることなどから常習性、計画性をきびしく追及され、常習性、計画性を否定することが精一杯の状況となつたところに、初犯であり相当な会社に勤めているので大したことはないなどといわれたりしたため、「シヨルダーバツグのふたが開き財布が中に入つているのが見えたので、今なら素人の私でも簡単に財布を盗める、盗んでやろうと思い、たまたま右手を入れているポケツトの底が破れていたので、その底から指を伸してバツグの中から三本の指で財布を盗んだ」旨出来心による窃取を認める司法巡査に対する供述調書が作成された旨、および勾留質問の際は、化粧バツグを手に持つたこと、逮捕されたのは事実であるので「事実はそのとおり間違いありません」と述べ、その前の検察官の弁解録取の際常習性計画性をきかれ、このことが頭にあつたので、裁判官に対して計画的でないことを強調することが主眼となつたものであり、また「窃盗の事実を否認したわけではありません」という点については、注意がゆきとどかず前記一の(3)のような勾留質問調書が作成された旨供述していること、

(4)  被告人の司法巡査に対する供述調書中では財布、財布と繰り返し記載されているが、被告人が手に押えた化粧バツグは前記二の(4)の如く通常の財布(がま口)と相当に異なることが外観上看取される化粧バツグであること、また被告人自身も、これを化粧バツグと認識し、その旨取調べの当初から言い続けたがとりあげてもらえなかつたと原審公判廷で述べていること(記録四九丁)、

などが認められ、これらに前記二の(1)ないし(6)の諸事実を併せ考えると、

(イ)  前記一の(2)の被告人の司法巡査に対する供述調書については、被告人の弁疏の如く、司法巡査厚地輝雄の取調べに対し当初否認していたが、すり現行犯として逮捕せられたこと、およびコートのポケツトの底の綻びのあることなどから厳しく常習性、計画性を追及されると、常習性等の追及に対し防禦することが精一杯となり、そこに初犯で大したことはないなどと緩急自在な追及を受けて、小心、遠慮勝ちな被告人が偶発的な出来心としての犯行を認める妥協的態度となり、前記のような司法巡査に対する供述調書が作成されるに至つた事情は理解できないことでなく、さらに前記二の(1)ないし(6)において説示した諸証拠により認められる客観的事実に照らすと、出来心による財布の窃取を認める被告人の司法巡査に対する供述調書は、不自然で客観的事実と符合しないところがあり、その内容に多々疑問があつてたやすく措信することができない。

(ロ)  次に前記一の(3)の勾留質問調書については、「事実はそのとおり間違いありません」と述べた点は、右(1)、(2)の説示に照らし、外形的な事実を認めた趣旨であつて、すりを認めた趣旨でないことが理解できるし、「検察官の取調べの際に知らぬうちに財布を握つていたというのは、計画的にやつたということを否定したもので、窃盗の事実を否認したわけではありません」という点も、小心、遠慮勝ちな被告人が、右(3)に説示した如く、検察官に常習性計画性を追及されたことが頭にあつて、裁判官に対し計画的でないことを強調することに主眼があり、「窃盗の事実を否認したわけではありません」と記載された点について注意がゆきとどかなかつたという弁疏も理解できないわけではないほか、ここでも司法巡査に対すると同様化粧バツグを財布と述べていること、勾留質問に先立つ被告人の司法巡査に対する供述調書が、前記の如くその内容に多々疑問があつて措信できないことなどに照らすと、勾留質問調書はその記載内容どおりにたやすく措信することができない。

してみると、本件においては前記一の(1)、すり係刑事小川清の原審公判廷における供述、(2)、被告人の司法巡査に対する供述調書、(3)、被告人に対する勾留質問調書など、原判示認定事実に副う重要資料が存するのであるがこれらはいずれもその内容に疑問があり、十分な証明力を有する証拠といえない以上、被告人が原判示の如く、乗客西島絹江が右肩にかけていたシヨルダーバツグ内から、同女所有にかかる手鏡等一一点在中の皮製化粧バツグ一個をすり取り窃取したことは、これを認めることができない。

その他記録を精査し、当審における事実調の結果を検討しても、被告人のすり取り窃取を認めるに足る証拠はない。

そうすると、被告人が皮製化粧バツグ一個をすり取り窃取したと認めて有罪事実を認定した原判決は、証拠の価値判断を誤り、事実を誤認したものというべく、原判決は、破棄を免れない。論旨は理由がある。

よつて、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書によりさらに判決する。

本件公訴事実は、

被告人は、昭和五〇年一二月六日午後一時一五分ごろ、大阪市東区大川町二一番地所在の大阪市営地下鉄御堂筋線淀屋橋駅停車中の千里中央駅行電車に乗り込んだ際、同車内において底の開いているオーバーコート右ポケツトより右手指をのばして、乗客西島絹江が、右肩にかけていたシヨルダーバツグ内から、同女所有にかかる手鏡等一一点在中の皮製化粧バツグ一個(時価計約一万一、二五〇円相当)をすり取り窃取したものである、というのである。

しかしながら、右公訴事実については、前記控訴趣意(事実誤認の主張)に対する判断において説示したとおり、これを認めるに足る証拠はなく、本件公訴事実は犯罪の証明がないから、刑事訴訟法四〇四条、三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをする。

(矢島好信 吉田治正 朝岡智幸)

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